真福八端 [自分のこと]
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、
身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。
(マタイによる福音書5・3-12)
キリスト教の教えを凝縮した聖書の福音の言葉です
でも、この「真福八端」を読んで、違和感を感じる方も多いと思います。
普通、「悲しむ人は幸い」とか「迫害される人は幸い」と考える人はいません。
日本人の多くの人はお寺や神社で「どんなことを神様にお願いしましたか」と聞かれると、「家族みんなが健康であるように」とか、「家内安全、商売繁盛」とか、「今年は受験だから、志望校に入れるように」という答えが返ってきます。
私たちカトリックのクリスチャンは、この聖書の言葉不思議とすんなり自分の心の中に入ってきます。
理由は・・・わかりません。私のような幼児洗礼の人は、育った家庭が普通にキリスト教に教えを大切にしていたので、特別違和感を感じませんが、普通の日本人は、神様にお願いするときは「ご利益」を求めてお賽銭や寄付をしますので・・・
「現世利益」を求める日本人的宗教観とはキリスト教は少し(というか、かなり)異なります。
でも病気や怪我などで自身が死に直面したときに、意外と落ち着いているのがクリスチャンの人たちと言います。
キリスト教では「死」決して悲しむべき事ではないのです。
神様の所に行ける大変幸せなことなんです。教会のあるシスターは「天国には自分が被る花の冠が用意されている」って言います。この世界で神様の御心に合う行いをしないと天国に行けないので、せっかく準備された冠をそのまま放置されてしまう、って言います。
「終末医療」という言葉を聞くことがあります。
自分の命の灯火が尽きるとき、どのような人生の終末を迎えるか・・・。私はまだ若いのでそこまでの思考は働きませんが、先日父がこんなことを言いました。
「自分は死は神様の思し召しとして、どんな死であっても(事故死でも病死でも・・・もちろん寿命が尽きる死も)受け入れれて、神様に全てを委ねたい」と言います。
病気で苦しむのも神の思し召し、事故で死ぬのも神様の思し召し・・・
そんな父の思いに「信仰って凄いな」って思います。
私もクリスチャンとして、神様は信じています。「馬鹿じゃないの」とか「そんな非科学的なことを・・・」って言う人がいますが、信仰は「心」です。「霊的」なものです。あのアインシュタインも「科学では証明できない霊的なものが万物の摂理である」と言っています。
私はクリスチャンの家庭に育って良かったなぁ、って思います。
人を憎むよりも愛することを・・・
憎しみの連鎖を絶つためにも隣人愛を・・・
物欲よりも神様のお恵みを・・・
いまある「あたりまえ」に感謝すること・・・
両親がずっと私に教えてくれた生き方を・・・私は大切にしてゆきたいと思ってます。
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